宇宙人モーツァルト
宇宙を説明するときに、宇宙の大きさや銀河系の規則性など、生身の人間には途方もなく大きすぎて理解できない説明を聞き、なるほどとうなずいている場合が多いものです。しかしそれは、宇宙という全体像に圧倒されているだけのように思いませんか。本当の意味で宇宙の素晴らしさというものは、宇宙の中のどんなに小さな一点までもが宇宙の法則性に基づいている事ではないでしょうか。
モーツァルトはそうした宇宙的な作曲家の頂点にいると思われます。彼の音楽は、他の作曲家と比べて実に少ない音で書かれています。しかし、音が足らないということもありません。無駄が全く無いということでは本当に驚かされますが、しかも、自由自在な表現であることには言葉もありません。
さらに、モーツァルトのもう一つの特徴は「ある事」を特定して表現しようとしないことです。ほとんどの作曲家が「力強さ」だったり「やさしさ」だったり、または「月の光」のように『この曲のテーマ』という一つのものを表現するための努力をするのですが、モーツァルトはいつも『全体』だけです。
音楽療法や音楽を使ったお酒造りというものが流行っているこの頃ですが、そういった場面で必ずモーツァルトが最適であるということは、実はこの『全体』表現にキーポイントがあるのです。モーツァルトの音楽には、宇宙の構造と同じように、小さな断片にも一の曲にも、さらにはすべての作品を通してモーツァルトだけの刻印がおされています。そういう意味で、彼は地球で最初の宇宙人かもしれません。
宮廷とモーツァルト
オーストリーの首都ウィーンはハプスブルク家の繁栄を象徴する優雅な町です。ハプスブルクの歴史は古く、西暦1273年から1916年まで続きます。歴代の君主達は政権を維持するために文化の向上を図りました。それは民衆の反乱を防ぐために有効な手段だったのです。
また諸外国との友好を継続させるために積極的に政略的な結構を推し進めます。宮廷での公用語は中世スペイン語、バロック期はイタリア語からフランス語が使われていました。その為もあって、宮廷に仕える音楽家はそれらの国から来た人が多かったのです。
モーツァルトは幼少のころからフランスやイギリス、イタリアを旅行し、また、それぞれの国の宮廷で演奏をしていましたので、当時の重要な人物で彼のことを知らない人はいなかったのです。
6才のモーツァルトがウィーンのシェーンブルン宮殿で演奏したとき、階段で転んでしまいました。彼より少し年上だったマリー・アントワネットが彼を助けて抱き起こしてくれます。あどけないモーツァルト「お姉ちゃん親切だね。大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげるよ!」
このような逸話は、その後、当時のアイドルだったモーツァルトの話として、マリー・アントワネットが嫁いだ先のヴェルサイユ宮殿にも伝わったでしょう。もちろん彼女が嫁ぐ十何年も前に、モーツァルトはここでも大喝さいを受けているのです。
音楽家王国
まじめな話だと思って読まないでください。クラシックの世界をネタに、気晴らしのコーナーです。
人間、持って生まれたキャラクターというものがあります。自分の持ち味を生かしてこそ芸術に磨きがかかります。そこで、音楽家王国と題して、この世界の役職を探してみましょう。
まず、総理大臣を見つけないといけませんね。政治力があり、黒幕的で、でも人前での説得力が抜群。リストを立候補させましょう。次に、大蔵大臣。ここは、一番大きな金を動かした人ということでメンデルスゾーン。彼の家は実際、大きな銀行だったので、専用のオーケストラまで雇っていました。
新興宗教の教祖にワーグナーというのはいかがでしょうか。誇大妄想もあそこまで大きくなると立派なものです。それに対してキリスト教の司教はバッハしかいませんね。
音楽家は宴会好きですから、コック長も必要となりますのでロッシーニを任命しましょう。彼は「セビリアの理髪師」の大成功の後、本当にレストラン経営者になったのです。
様々な人が音楽王国にはやって来ます。当然トラブルも多発しそうですので、裁判所を作らなければなりませんね。物事を曲げられない性格の人、裁判官はベートーヴェンでしょうか。治安もよくなって欲しいもの。ラフマニノフを警察署長にしましょう。何かというときの探偵にはラヴェルを推薦。
何となく思い浮かべる人のイメージって面白いですね。皆さんもひとひねりして、音楽家のための再就職を考えてあげてください。そうそう、王国というからには王様が必要です。もちろん、音楽家王国の帝王はモーツァルトですよね。
もーつぁるとのもくろみ
音楽家は何をもって成功したというのでしょうか。多くの場合、どこどこの楽長、監督、という肩書きに人生が左右されてしまいます。これは、今の日本どころではなくヨーロッパにおいて顕著となります。
モーツァルトも例外ではなく、彼はその一生のすべてを、宮廷楽長の座をとるために奔走したと言っても過言ではないのです。あるいは、5才の時からの演奏旅行も、そのためだったと言えるでしょう。彼の場合、神童と騒がれて幼いころは各宮廷の人気者でしたが、20才過ぎにザルツブルグの大司教と喧嘩し辞表する事件を境に人生が反転します。
ザルツブルグは当時、ドイツからもオーストリーからも完全に独立した大司教領として統治されていたので、国の治安としての立場から少しでも問題の種を作りたくないという考え方からも、オーストリーの宮廷ではモーツァルトを遠ざけるようになります。
そのような事になっているのに気がつかないモーツァルトは、必死に宮廷関係者にアプローチし続けるのです。「作曲家とかそのたぐいの役に立たぬ連中をやとうのはやめた方がいいです」これは、モーツァルトを宮廷音楽家として雇おうとして相談したミラノのフェルディナント大公へ宛てた女帝マリア・テレージアの手紙です。
オペラ「フィガロの結婚」と「ドン・ジョバンニ」も宮廷から敬遠される原因となりました。というのは、ご承知のように、このオペラの台本は、権力に対しての批判が随所に見られるからです。聴衆たちは、このオペラを当時から認め、興行としては成功していたのにもかかわらず、宮廷側からかなりの風当たりを受けることとなります。
この「ドン・ジョバンニ」から後、モーツァルトは貧困の生活を強いられ、若くして亡くなる原因となったのです。それでも無給の名誉職、宮廷音楽家、大聖堂の副楽長というポストにすがり、ウィーンの楽長への道を夢見ていたのです。
時が経ち、宮廷を始めとする権力、自らの肩書きを必死に守る音楽家、ゴシップに惑わされる聴衆などは時間とともに滅びて、最後に燦然と輝き残ったのはモーツァルトの作品の方だったのですね。
彼の生み出した曲と、彼が望んだ生活のギャップの大きさに、いつも首をかしげるのですが、そういった意味では僕らが考える一番モーツァルトらしい姿、赤い上着に金のボタン、銀のかつらといったものも、実は彼の音楽から一番遠いところの象徴なのかもしれません。
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