《モーツァルト》

§1§

      《ロココ時代》
〜モーツァルトが生まれたころはどんな世の中だったのでしょう?〜
(ロココ時代の衣装や建物を映像で見ながらモーツァルトの幼い時期の作品をチェンバロで聞いてもらいます)
♪メヌエット K.1
♪メヌエット K.2
♪アレグロ  K.3
♪「きらきら星」変奏曲 K.265

      《古典派の時代》
〜若き青年モーツァルトが成功を求めてピアニストとして旅立ちます〜
(ハイドンやベートーヴェンとともに確立した形式=ソナタ形式が、今日のクラシック音楽の原点です。これはピアノという楽器の発展と密接なつながりがあります。)
♪ソナタ 第1番 C-Dur K.279
♪ソナタ 第15番 C-Dur K.545「初心者のための小ソナタ」
♪ソナタ 第11番 A-Dur K.331「トルコ行進曲」付き

§2§

      《オペラ・アリアから》
〜オペラ作家として大成功したモーツァルトの作品〜
(モーツァルトが作曲に使った楽器はチェンバロが基本です。楽器の音域とアリアの歌手に要求した音域は同じなのです。チェンバロとピアノで作曲時のイメージを聞いていただきます)
♪歌劇『ドンジョバンニ』よりツェルリーナのアリア
♪歌劇『魔笛』よりパパゲーノ「俺は鳥刺し」、夜の女王のアリア
♪歌劇『フィガロの結婚』よりケルビーノのアリア、他

      《ロマン派の夜明け》
(環境音楽的なロココスタイルから出発したモーツァルトは、すでに次の時代を飛び越えた「音楽表現」を試みています。ただの天才だけに終わらない芸術家としての手腕を存分に楽しんで下さい)
♪幻想曲 d-moll K.397
♪ソナタ 第9番 a-moll K.311
♪ソナタ 第13番 B-Dur K.333


     ※上記のプログラムは2夜連続、又は午後と夜間などに分けて演奏するコンサート用です。
 ピアノとチェンバロを両方使います。学校用としては半分よりも少なくなります。



《パンフレット用に》

§演奏家よりメッセージ


今年は神童「モーツァルト生誕250年」記念の年です。世界各地でモーツァルトを特集したコンサートや番組が組まれていますし、この夏には生地ザルツブルグでの大イベントも予定されています。せっかくのモーツァルト・イヤーですから、多角的に大天才を見れる内容の曲目で演奏を楽しんでいただくことにしました。
午後の部は、おもにお子様を中心とした方々のための「笑顔満開の楽しさ、羽毛のように軽快な響き」の作品を集め「モーツァルトの作品の出発点」を分かりやすく解説します。夜の部は大人の方々向けの内容ですが、この日の2回のコンサートによってはじめてモーツァルトの本当の凄さが理解できると思います。総合芸術としてのオペラに挑んだモーツァルト。さらには当時の聴衆の理解をはるかに越えてしまった音楽表現。「大きく深く、迫力に満ち溢れた雄弁」な作品...一般像モーツァルトらしからぬ音楽があって彼の魅力を高めていくわけです。
今回は、生の響きを聞く機会の少なくなったチェンバロを使い、幼いころの作品をオリジナルの響きで楽しんでいただくほか、映像など視覚的にも時代を捉えられるような工夫をしてみます。チェンバロ時代最後の音楽家でもあり、古典派のみならずロマン派の作風にまで到達してしまった「時代を越えた天才」の姿を体感していただけたらと思います。






《解説ノート》

神童が生まれた...

モーツァルトの正式の名前は、ヨハンネス・クリュソトムス・ヴォルフガング・テオーフィルス・モーツァルト。このテオーフィルスはギリシャ式で、ラテン式に言うとアマデウスとなる。幼いころから神童ぶりを披露し、各地を演奏旅行。特に父親のレオポルドの熱心な手ほどきと、先見に満ちた国際感溢れる教育によって、天才作曲家が生まれたと言ってよいだろう。レオポルドは、当時のドイツ・バロックよりも王候貴族社会のラテン語圏の芸術を旅行を通して徹底的に勉強させた。しかしさらに、モーツァルトは彼の才能でその枠を越え、ラテン語圏の芸術を土台としながらも、独語による文学的な芸術(ロマン派の作風)の出発点を築き上げることとなる。



宇宙人モーツァルト


宇宙を説明するときに、宇宙の大きさや銀河系の規則性など、生身の人間には途方もなく大きすぎて理解できない説明を聞き、なるほどとうなずいている場合が多いものです。しかしそれは、宇宙という全体像に圧倒されているだけのように思いませんか。本当の意味で宇宙の素晴らしさというものは、宇宙の中のどんなに小さな一点までもが宇宙の法則性に基づいている事ではないでしょうか。
モーツァルトはそうした宇宙的な作曲家の頂点にいると思われます。彼の音楽は、他の作曲家と比べて実に少ない音で書かれています。しかし、音が足らないということもありません。無駄が全く無いということでは本当に驚かされますが、しかも、自由自在な表現であることには言葉もありません。
さらに、モーツァルトのもう一つの特徴は「ある事」を特定して表現しようとしないことです。ほとんどの作曲家が「力強さ」だったり「やさしさ」だったり、または「月の光」のように『この曲のテーマ』という一つのものを表現するための努力をするのですが、モーツァルトはいつも『全体』だけです。
音楽療法や音楽を使ったお酒造りというものが流行っているこの頃ですが、そういった場面で必ずモーツァルトが最適であるということは、実はこの『全体』表現にキーポイントがあるのです。モーツァルトの音楽には、宇宙の構造と同じように、小さな断片にも一の曲にも、さらにはすべての作品を通してモーツァルトだけの刻印がおされています。そういう意味で、彼は地球で最初の宇宙人かもしれません。

宮廷とモーツァルト


オーストリーの首都ウィーンはハプスブルク家の繁栄を象徴する優雅な町です。ハプスブルクの歴史は古く、西暦1273年から1916年まで続きます。歴代の君主達は政権を維持するために文化の向上を図りました。それは民衆の反乱を防ぐために有効な手段だったのです。
また諸外国との友好を継続させるために積極的に政略的な結構を推し進めます。宮廷での公用語は中世スペイン語、バロック期はイタリア語からフランス語が使われていました。その為もあって、宮廷に仕える音楽家はそれらの国から来た人が多かったのです。
モーツァルトは幼少のころからフランスやイギリス、イタリアを旅行し、また、それぞれの国の宮廷で演奏をしていましたので、当時の重要な人物で彼のことを知らない人はいなかったのです。
6才のモーツァルトがウィーンのシェーンブルン宮殿で演奏したとき、階段で転んでしまいました。彼より少し年上だったマリー・アントワネットが彼を助けて抱き起こしてくれます。あどけないモーツァルト「お姉ちゃん親切だね。大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげるよ!」
このような逸話は、その後、当時のアイドルだったモーツァルトの話として、マリー・アントワネットが嫁いだ先のヴェルサイユ宮殿にも伝わったでしょう。もちろん彼女が嫁ぐ十何年も前に、モーツァルトはここでも大喝さいを受けているのです。

音楽家王国


まじめな話だと思って読まないでください。クラシックの世界をネタに、気晴らしのコーナーです。
人間、持って生まれたキャラクターというものがあります。自分の持ち味を生かしてこそ芸術に磨きがかかります。そこで、音楽家王国と題して、この世界の役職を探してみましょう。
まず、総理大臣を見つけないといけませんね。政治力があり、黒幕的で、でも人前での説得力が抜群。リストを立候補させましょう。次に、大蔵大臣。ここは、一番大きな金を動かした人ということでメンデルスゾーン。彼の家は実際、大きな銀行だったので、専用のオーケストラまで雇っていました。
新興宗教の教祖にワーグナーというのはいかがでしょうか。誇大妄想もあそこまで大きくなると立派なものです。それに対してキリスト教の司教はバッハしかいませんね。
音楽家は宴会好きですから、コック長も必要となりますのでロッシーニを任命しましょう。彼は「セビリアの理髪師」の大成功の後、本当にレストラン経営者になったのです。
様々な人が音楽王国にはやって来ます。当然トラブルも多発しそうですので、裁判所を作らなければなりませんね。物事を曲げられない性格の人、裁判官はベートーヴェンでしょうか。治安もよくなって欲しいもの。ラフマニノフを警察署長にしましょう。何かというときの探偵にはラヴェルを推薦。
何となく思い浮かべる人のイメージって面白いですね。皆さんもひとひねりして、音楽家のための再就職を考えてあげてください。そうそう、王国というからには王様が必要です。もちろん、音楽家王国の帝王はモーツァルトですよね。

もーつぁるとのもくろみ


音楽家は何をもって成功したというのでしょうか。多くの場合、どこどこの楽長、監督、という肩書きに人生が左右されてしまいます。これは、今の日本どころではなくヨーロッパにおいて顕著となります。
モーツァルトも例外ではなく、彼はその一生のすべてを、宮廷楽長の座をとるために奔走したと言っても過言ではないのです。あるいは、5才の時からの演奏旅行も、そのためだったと言えるでしょう。彼の場合、神童と騒がれて幼いころは各宮廷の人気者でしたが、20才過ぎにザルツブルグの大司教と喧嘩し辞表する事件を境に人生が反転します。
ザルツブルグは当時、ドイツからもオーストリーからも完全に独立した大司教領として統治されていたので、国の治安としての立場から少しでも問題の種を作りたくないという考え方からも、オーストリーの宮廷ではモーツァルトを遠ざけるようになります。
そのような事になっているのに気がつかないモーツァルトは、必死に宮廷関係者にアプローチし続けるのです。「作曲家とかそのたぐいの役に立たぬ連中をやとうのはやめた方がいいです」これは、モーツァルトを宮廷音楽家として雇おうとして相談したミラノのフェルディナント大公へ宛てた女帝マリア・テレージアの手紙です。
オペラ「フィガロの結婚」と「ドン・ジョバンニ」も宮廷から敬遠される原因となりました。というのは、ご承知のように、このオペラの台本は、権力に対しての批判が随所に見られるからです。聴衆たちは、このオペラを当時から認め、興行としては成功していたのにもかかわらず、宮廷側からかなりの風当たりを受けることとなります。
この「ドン・ジョバンニ」から後、モーツァルトは貧困の生活を強いられ、若くして亡くなる原因となったのです。それでも無給の名誉職、宮廷音楽家、大聖堂の副楽長というポストにすがり、ウィーンの楽長への道を夢見ていたのです。
時が経ち、宮廷を始めとする権力、自らの肩書きを必死に守る音楽家、ゴシップに惑わされる聴衆などは時間とともに滅びて、最後に燦然と輝き残ったのはモーツァルトの作品の方だったのですね。
彼の生み出した曲と、彼が望んだ生活のギャップの大きさに、いつも首をかしげるのですが、そういった意味では僕らが考える一番モーツァルトらしい姿、赤い上着に金のボタン、銀のかつらといったものも、実は彼の音楽から一番遠いところの象徴なのかもしれません。



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